地球上の水素の中には、通常の水素の約2倍の質量をもつ「重水素」が0.015%だけ含まれています。重水素はこれまで基礎研究のみに使われてきましたが、最近、分子中の水素を重水素に置き換えた「重水素化分子」に機能向上が見いだされ、新たな材料として実用化され始めています。しかし、なぜ水素を重水素に変えると高機能になるのかというメカニズムはほとんど解明されていません。理論研究への期待が高まる中、HPCI(革新的ハイパフォーマンス・コンピューティング・インフラ)を駆使して、このような重水素効果の発現機構を解き明かしているのが立川さんです。
「実は、重水素の研究は遊びから始まったのです」と、立川さんは振り返ります。「博士課程のときに開発した分子計算のプログラムで、ある分子中の水素(H)の原子核を陽電子に変えてみたところ面白い結果が得られました。そこで、次に、水素の原子核の質量を2倍にしてみました。質量を約2倍にすると重水素(D)になりますからね。すると計算結果が大きく変わりました」。つまり、分子中の水素を重水素に変えると、分子の性質が変わる可能性が示唆されたのです。「水素と重水素の化学的性質は同じという『常識』は間違いではないか」と考えた立川さんは、さっそく水素を重水素に置き換えた分子(重水素化分子)の計算に取り組み、水素と重水素の違いを定量的に明らかにする研究を始めました。
分子のように非常に小さい粒子のふるまいは、量子力学の理論に従います。しかし、分子の形やエネルギーなどを量子力学で計算しようとするとその計算量は膨大になります。そこで、分子の計算をするときには通常、分子中の電子だけが量子力学に従うとし、電子に比べて非常に重く電荷密度が高い原子核は静止した点電荷とみなすことで計算量を抑えています。
しかし、立川さんが着目したのは水素と重水素の違いです。電子はどちらも1個で、違いは原子核にあります図1から、この違いを表現するためには、原子核も静止した点電荷ではなく量子力学の理論で計算しなければなりません。そこで立川さんは、電子だけでなく、原子核も量子力学で計算するための「量子多成分系分子理論」を新たに作り出し、自作のプログラムを実装しました。ここでいう成分とは、電子、原子核だけでなく、陽電子やミューオンなども含めた粒子の種類のことです。
水素の原子核は陽子1個のみだが、重水素の原子核(重陽子ともいう)は陽子1個と中性子1個からなるため、質量が異なる。この質量の違いが、通常の分子と重水素化分子の性質の違いを生む。(元図提供:京都大学 中寛史准教授)
最初に計算したのは、水素分子でした。2個の水素原子からなるH2、水素と重水素が1個ずつのHD、2個の重水素からなるD2を計算したところ、電子密度も核密度も核間距離もそれぞれ異なるという結果が得られたのです図2。また興味深いことに、HD分子では電子の電荷分布がDのほうに偏ることが分かりました。この結果をみて、立川さんは「こんなにも違うのか」と驚きました。実験の研究者にその計算結果を伝え、意見を求めると「この結果は実験の研究者は測定して知ってはいたが、その理由を説明できる理論がなかった」と言われたそうです。立川さんは、原子核を量子力学的に扱うことで、水素と重水素の違いの理論計算を可能にしたのです。
HD分子では、電子の電荷分布がDの方に偏るという結果が得られた。その偏りの程度(双極子モーメント、単位はD[デバイ])も実験値(μexp)をよく再現するものだった。また、原子核間の距離はH2>HD>D2の順に短くなることも分かった(かっこ内は実験値)。
立川さんは、原子核を量子力学的に扱う計算方法を次々に開発し、次第に大きな重水素化分子を計算できるようになっていきました。その一つが四角酸という炭素4個が四角に結合している物質(C4H2O4)です。四角酸の結晶は水素結合で繋がれており、低温では反強誘電体、高温では常誘電体になります。簡単にいうと、結晶に電場をかけたときの性質が温度によってガラッと変わるのですが、その相転移温度(変わり目の温度)が、水素を重水素に変えると373K(100℃)から520K(247℃)に上昇します。このように、重水素化で性質が大きく変わる結晶の代表例であることから、四角酸の結晶を計算対象に選びました。
原子核を量子力学的に扱う手法の一つとして、「経路積分(PI)法」があります図3。量子力学では、原子核はさまざまな量子状態の重ね合わせで表されます。PI法では、量子状態の一つ一つを古典的な物理法則に従う「ビーズ」で表し、それらをバネでつないだ「ネックレス」で量子状態の「重ね合わせ」を再現します。その上で、異なるネックレスの間の相互作用をビーズごとに計算して足し合わせるのです。
立川さんは、この計算法を発展させ、九州大学の「スーパーコンピュータシステム ITO」を駆使して四角酸結晶の計算を行いました。「PI法のアルゴリズムはビーズごとに分割できるので、もともと並列化しやすいのです。さらに、ビーズ間の相互作用の計算に並列化が可能な量子力学計算用アプリを適用することで並列化効率を高めることに成功しました。その結果、膨大な計算を達成することができ、計算の精度が上がりました」。
量子力学的に相互作用する2個の原子核(左)を、PI法では右のように表す。右の図では、一例としてビーズ4個をバネでつないだネックレス1個で原子核1個を表している(ビーズの数は計算目的に応じて8、16、32などとする)。2個のネックレスのビーズ同士をつなぐ点線は、電子の関与する原子間の相互作用(量子力学計算用アプリにより算出)を示している。これらの効果を全て取り込むことにより、全粒子を量子力学的に扱うことが可能となり、その分子の構造や物理量を高精度に求めることができる。
計算の結果、原子核を量子力学計算に含めると、水素も重水素も2個の酸素原子の中間付近に存在しやすい傾向が現れることや、水素結合に関与する水素と重水素の位置が、温度が上がるにつれて違ってくることが分かりました図4。また、立川さんは、PI法の並列化効率を高める手法を開発・実装し、この成果を達成したことで、2022年の第9回HPCI利用研究課題優秀成果賞(物質・材料・化学分野)を受賞しました。
上図は四角酸結晶の部分構造(2分子が水素結合したところ)。グレーは炭素、赤は酸素、白は水素または重水素を表す。下図は3つの温度における水素(重水素)原子の位置を計算した結果。横軸(δH(D))は、水素(重水素)原子が2個の酸素原子の間のどこに位置するかを示す指標(上図の囲み参照)。縦軸(確率密度)は、その位置に原子が存在する確率。赤曲線は○で囲んだHが水素であるとしてPI法により計算した場合、青曲線は重水素であるとした場合の結果。黒曲線は、Hが水素であるとして原子核を量子力学計算に含めない場合の結果。黒曲線はどの温度でもピークが二つ(二山)になり、水素原子がどちらかの酸素原子に偏って存在するという結果が得られたが、PI法の150Kでは水素の場合も重水素の場合も中央にピークがあり、2個の酸素原子の中央付近に存在するという結果になった。300Kでは、水素の場合は中央にピークがあり、重水素の場合は二山になりかけている。600Kではどちらも二山となっている。この計算結果から、重水素化における構造変化が明らかとなった。
四角酸の計算を始めたころ、立川さんは東京大学の森初果教授との共同研究も行いました。森教授は、ある有機伝導体の水素を重水素に変えた場合にだけ絶縁体への転移が起こることを実験で発見し、その理論的な説明を求めて立川さんに共同研究を申し込んだのです。立川さんはこの物質の計算も行い、重水素の場合にだけ相転移が起こるメカニズムを明らかにしました。
重水素化による医薬品の効果向上が初めて論文誌に掲載されたのは2009年。そのときは、誰もが「製品化は無理だろう」と考えていました。ところが、2017年にデューテトラベナジンが、ハンチントン病の薬としてアメリカ食品医薬品局(FDA)に承認されました図5。既存薬の水素の一部を重水素化しただけで、薬効持続性が向上し服用回数が少なくてすむようになったのです。
既存薬テトラベナジンの一部の水素(青字のH)を重水素(赤字のD)に変えたのが、デューテトラベナジン。水素を重水素に置き換えたことで、薬効持続性の向上という効果が得られた。
水素を重水素に置き換えることで酵素との反応が進みにくくなり、薬効が長時間続くことは分かっていますが、なぜ重水素化がそのような変化をもたらすのかは明らかになっていませんでした。そこで、立川さんはデューテトラベナジンの反応部位のモデルとしてアニソールという分子を用い、酵素との反応も簡略化してエネルギーがどう変化するのかを計算しました図6。計算は、立川さんが開発した量子多成分系分子理論の一つである、多成分系密度汎関数法という手法を用い、ITOで行いました。
すると、アニソールから水素あるいは重水素を引き抜く反応を起こすのに必要な活性化エネルギーは、重水素のほうが大きいことが分かりました。つまり、水素より重水素のほうが引き抜かれにくいのです。それならば、酵素との反応がゆっくり進み薬の効果が持続するのも合点がいきます。「これは、医薬品の重水素化のメカニズムを世界で初めて明らかにした研究で、論文誌の表紙にも取り上げられたり、寄稿の依頼がいくつも寄せられたりと多くの反響をいただきました」と立川さんは胸を張ります。
アニソール(C6H5OCH3)または重アニソール(C6H5OCD3)から、メトキシラジカル(OCH3)によって水素または重水素が引き抜かれる反応の反応物、生成物、遷移状態それぞれのエネルギーを計算した。重水素のほうが、活性化エネルギーが大きかった(EaD>EaH)。この違いの他にも、例えば、反応物ではCD3中のC-D距離はCH3中のC-Hよりも短いと分かった。また、重水素の原子核周辺の電子数は、水素の原子核周辺よりも多くなった。この計算では、トンネル効果という量子的な性質を考慮した計算を行えるようになった。
この薬の他にも重水素化医薬品の開発はさかんで、承認例もいくつか出てきています。また、医薬品の他に材料の分野でも、重水素化分子の実用化が始まっています。例えば、重水素化によって発光効率や耐久性が向上したディスプレイ用の有機EL材料が2021年に韓国から報告されています。
「承認された中には、水素の一部を重水素にすることで、骨髄繊維症に適応の薬が円形脱毛症に適応の薬に変わったものもあります。重水素化で適応疾患までガラリと変わるのです。しかも、その分子の脂溶性が重水素化で小さくなるということも分かっています。このように、従来の経験からは理解しがたい性質の変化も見つかっています。一方、材料の分野では、新たな機能をもつ分子の開発が難しくなっているため、『最後の手段は水素をすべて重水素化することだ』とまで言われているそうです。ところが、性質が変化するメカニズムが分からないために、重水素化で新たな性質の分子を作ろうとしても分子設計の指針が立てられないのが現状です。私は理論計算で性質が変わるメカニズムを明らかにして、重水素化分子を設計するための指針を示したいのです」と立川さんは抱負を語ります。
その構想の一部は、既に実現しています。現在、電子だけを量子力学で計算する分子計算用のアプリはいくつかあり、実験の研究者にも広く使われています。立川さんが開発した原子核も量子力学で計算する手法が、そうしたアプリの一部にも導入されており、別のアプリに導入する計画も進んでいます。さらに「将来は、AIを使って、重水素化分子の構造を入れれば性能を予測できるようなアプリも作りたいです」と立川さん。実験の研究者がアプリで手軽に重水素の効果を計算できるようになれば、重水素化分子の実用化は大きく前進することでしょう。
また、重水素化医薬品については、重水素化分子合成の専門家である岐阜薬科大学の佐治木弘尚教授や京都大学の中寛史准教授との共同研究に力を入れています。共同研究を発展させ、「モデル反応ではなくタンパク質全体と重水素化医薬品の相互作用を計算したい。それだけでなく、薬が体内に入った後、どのように変化するのかも計算し、薬のどの部分を重水素化すればより効果的になるかを予測したい。その結果を生かすには、分子の中の狙ったところだけを重水素に変える必要があるので、触媒も含めた重水素化反応のエネルギー計算をして、効率的な重水素化反応も提案したい。そして、理論計算で重水素化学の羅針盤をつくり、重水素化学を次世代の革新的化学に発展させていきたい」と夢は膨らみます。
立川さんの前には、他にも明らかにしたい謎が山積しています。例えば、星間分子雲で生成される分子では、D原子を含む重水素体の存在比が10%にも達しているという観測結果があります。「なぜ星間分子雲では重水素濃縮が生じるのかを計算で解明したいですね」といいます。また、立川さんが開発してきた計算手法は、重水素以外にも陽電子やミューオンといった素粒子の計算に適用できるため、素粒子の謎にも挑戦したいと実験の研究者との共同研究を進めています。「重水素をはじめいろいろな粒子を含む分子の計算ができるようになって、目の前にたくさんのおもちゃを置かれた子どものような心持ちです。さまざまな分野で未開拓な面白いテーマがたくさんありますから、皆さんも、ぜひ立川研究室で一緒に研究しませんか?」と立川さんは呼びかけています。
研究課題名: | 水素量子効果を持つ結晶系の第一原理シミュレーション法の開発(hp210077) 重水素置換による医薬品および材料のための第一原理計算手法の開発および応用(hp220061) |
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課題代表者: | 横浜市立大学 立川 仁典 |
HPCIを駆使して、人の力ではとてもできない計算をする立川さん。実は、そろばんの名人でもあります。実家が八百屋さんだった立川さんは8歳から12歳までそろばん教室に通い、3段まで取得しました。それから数十年、お子さんが4段を取得して追い抜かれたのを機に、そろばん熱が再燃。2024年には、横浜市青年第Ⅱ部の珠算、暗算の両方の部門で優勝しました。「さすがに量子計算の検算はできませんが、案外、研究にも役立っているんです」と立川さん。そろばんで鍛えた暗算力で、HPCIの課題申請時に「計算時間はだいたいこのくらいのはず」と素早く概算するそうです。
取材日:2024年11月28日
COLUMN CONNECTは、計算科学の研究者によるリレー形式のコラムです。
研究者になったきっかけ、転機となった出来事、現在の研究内容などを研究者自身に綴っていただきます。
東北大学大学院工学研究科
航空宇宙工学専攻
助教
淺田 啓幸さん
今は研究者として生きる私ですが、高校生まではお世辞にも良い学生ではなく、勉強はなるべく避けて遊んでばかりいました。その結果、大学受験で失敗し、ほぼ全ての志望校に不合格でした。勉強ばかりの日々がまた続くのかと絶望していましたが、そんな時に青い空をぼんやりと眺めていると、一機の飛行機が飛んでいました。その時に、「飛行機って何で飛べるんだろう」とふと疑問に思ったのです。著名な研究者の方々は幼いころから多くの事に疑問を持ち興味を抱くと聞きますが、私がまとも(?)な疑問を抱いたのはその時が初めてだったと思います。それからは、航空分野で有名な大学を探して勉強への意欲も湧き、東北大学の航空宇宙工学専攻へと進学しました。しかし、その時は自分が研究者になるということはまだ微塵も思っておらず、飛行機の整備士がいいかなと思っていたぐらいです。本当の転機となったのは、航空流体シミュレーションに関する卒業研究で、今までできなかった事を自分の考えで打破し、達成感を味わった時でした。興味を抱いた航空機に関わりながら、達成感という幸福を感じられる研究者も悪くないと思ったのです。
その後は、一貫して今でも航空流体分野の数値シミュレーション技術に関する研究を進めています。航空機は当たり前のように飛んでいて研究の余地が無さそうに見えますが、時代の流れとともに日々改良が求められています。例えば、旅客機の運航数は年々増加し、空港周辺の騒音問題が顕著となり、低騒音な航空機の開発が求められています。また、カーボンニュートラルな時代に向け、水素航空機も世界的に注目されています。このような次世代の航空機の設計開発には、数値シミュレーションによる予測が必要不可欠ですが、より難しい流体現象に対するより高精度な予測が求められ、難題が数多くあります。だからこそ研究は楽しいのだと思います。この研究の面白さに気づけたのは、大学受験に失敗して空を眺めていたことから始まり、学生時代に指導教員の先生方から多くのご指導をいただいて、今も時折会い研究を進める友人と出会えた賜物と感じています。
次回は、同じ大学で同じ専攻の同じ助教として働いている、東北大学工学研究科の川越吉晃さんにCONNECTします。