脳梗塞やクモ膜下出血は脳内を循環する血液の流れの異常が関係する怖い病気です。こうした病気の診断にはCT(コンピュータ断層撮影法)やMRI(磁気共鳴画像法)などの画像検査が利用されていますが、血液の流れの情報を詳しく知ることはできません。また、脳の病気には、脳脊髄液や脳間質液の循環が関係するものもあります。そこで、伊井さんらは患者さん個々人の脳循環をサイバー空間上に再現する「脳循環デジタルツイン」をつくり、臨床医が病気のリスクを診療の現場で予測できるようにしようと研究を進めています。
伊井さんは2022年度まで、大阪大学の和田成生教授が率いる「富岳」成果創出加速プログラムの研究課題のメンバーでした。「脳というと神経活動が注目されがちですが、神経活動を支えているのは酸素や栄養分を運ぶ血液循環です。また、血液循環の異常は病気につながるので、循環の詳しい情報を臨床現場での診断に役立てたいという声もありました。そこで、和田先生は脳全体の血液循環のシミュレーションに取り組もうと考えられたのです」と、伊井さんは研究の始まりを説明します。
血液循環をシミュレーションするには、まず脳全体の血管網のモデルをつくらなければなりません。それを担当したのが伊井さんでした。「脳の血管は太い頸動脈が分岐して細い血管となり、脳の各所まで行き渡ったのち、再び合流して太い頸静脈となっています。太い血管の形状はCTやMRIの画像でわかるのですが、細い血管がどのようにはり巡らされているのかまでは見えません。このため、数理的なルールを決めて細い血管のネットワークをつくり出しました」。
こうして構築した脳血管網モデル図1は、実際の血管網をよく再現していました。さらにこの課題では、別のメンバーが血液の流れ方を物理法則に則ってモデル化した「物理モデル」により、伊井さんが構築した血管網モデルに血液を流すシミュレーションに成功しました動画1。こうして、脳内の血流を詳しく解析したり、脳疾患との関係を検討したりすることが可能になったのです。
伊井さんは2023年度から、自身が研究代表者となって新たな研究課題に取り組んでいます。「この課題では、和田先生の課題の成果を血液以外の脳循環にも発展させるとともに、臨床の現場でお医者さんがすぐに使えるようなツールをつくるのが目標です」。どのように研究を進めているのか、脳動脈瘤を例としてご紹介しましょう。
脳動脈瘤は脳の血管がコブ状に膨れてしまった部分のことです図2。このコブが破裂するのがクモ膜下出血であり、命を落とすケースも少なくありません。脳動脈瘤の治療法は主に二つあります。一つは開頭して脳動脈瘤の根本をクリップで挟み、血が流れないようにする方法。もう一つは、カテーテルを使って金属製のコイルを血管の中から脳動脈瘤に送達させ、内部を埋める方法です。どちらも一定のリスクを伴う難しい治療です。医師にとって悩ましいのは、脳動脈瘤があっても破裂せず天寿を全うする人も多いこと。脳動脈瘤が成長し破裂するリスクと治療のリスクのどちらが高いのか、現状では判断が難しいのです。それだけに「この患者さんのこの脳動脈瘤」が破裂するリスクを予測したいという声が高まっています。
脳動脈瘤の成長や破裂には、脳動脈瘤を流れる血液が血管壁を押す圧力と、血管壁を擦る力(壁面せん断応力)が関係すると考えられています。そこで、伊井さんは和田先生が代表だった前の課題で培った知見を活用して、動脈瘤付近の血流をシミュレーションしました。
具体的には、脳動脈瘤付近の血管を直交する格子で区切り、物理モデルによってシミュレーションを行いました図3。患者さんごとに血管の形状は異なりますが、直交格子を組み合わせる手法ならば、血管形状に沿った複雑な形状の計算格子を毎回生成する手間が省けます。「富岳」が得意とする大規模並列計算に適していることも直交格子を選んだ理由の一つです。
大きな特徴は、気象シミュレーションなどに使われる「データ同化」を取り入れていることです。データ同化とは観測データをシミュレーションにとり入れることにより、シミュレーションが実態から乖離しないようにする手法です。「今回は、脳の血管の一部を取り出してシミュレーションするので、その部分に流入する血流速度などの境界条件を定める必要がありますが、平均的な値を使ったのでは患者さん一人一人の状態を再現することができません」。 そこで伊井さんは、PC-MRI※1※1 MRIの撮像法の一つである位相コントラスト(phase contrast; PC)法による MRI。血流速度を反映した画像が得られる。で測定した患者さんの血管内の各地点の血流速度をデータ同化することで、その患者さん固有のシミュレーションを行えるようにしました図4。
こうして、個別の脳動脈瘤の血流シミュレーションが可能になりました動画2。画像検査では知ることができない壁面せん断応力や局所的な圧力のデータを集める準備がようやく整ったのです。「脳動脈瘤を成長させるリスク因子は、まだはっきりとはわかっていません。壁面せん断応力が強いと成長するという報告もあれば、変化が大きいと成長するという報告もあるなど、何がリスク因子なのか議論が分かれています。リスク因子を明らかにするためにも、シミュレーションで求めた数値データを蓄積して定量的に分析していくことが重要です」と伊井さんはその意義を語ります。
「しかし、リスク因子が明らかになったとしても、臨床の現場で脳動脈瘤の成長や破裂のリスクを予想するために、患者さんごとのシミュレーションを医師が行うのは非現実的です。臨床現場の忙しさや計算機環境を見据えると、もっと簡単に予測できるモデルが必要です。このため、私たちは機械学習モデルの開発に取り組んでいます」と伊井さんは続けます。
この機械学習モデルは、画像検査データから血管壁にかかる圧力や血管壁せん断応力を推論するものです。推論は臨床現場のパソコンの計算力でも十分可能なため、このモデルを使えば、「MRI画像の動脈瘤の壁をクリックすると、そこにかかる圧力や壁面せん断応力を表示してくれるようなアプリ」を実現でき、医師はそれをリスク予想に役立てることができます。
しかし、この機械学習モデルをつくるためには、画像検査データ(血管形状と血流の速度場)と、シミュレーションで算出した血管壁にかかる圧力や血管壁せん断応力をセットにした教師データを、何十万パターンも学習させる必要があります。このデータを集めるために、臨床の現場で大勢の患者さんにPC-MRI検査を受けてもらうことはできません。そこで伊井さんたちは、シミュレーションによって教師データをつくり出そうと考えています。個々のシミュレーションは大きな計算ではありませんが、何十万通りものシミュレーション結果を早く得るために「富岳」の計算力を活用する計画です。
教師データの作成には、一つの画像検査データから血管の形状や血液の粘度などを少しずつ変えた擬似的な画像検査データをたくさんつくり、それぞれについて血流のシミュレーションを行います。シミュレーション結果を教師データとして用いることで、ノイズの多い画像検査データをそのまま使うよりも、性能のよい機械学習モデルをつくれるという利点もあります。
伊井さんの課題では、課題参加者である東京大学の大島まり教授も、別のタイプの機械学習モデルの構築を目指しています。内頸動脈重度狭窄症という病気を対象としており、血管の長さや狭窄の程度をパラメータとして、シミュレーションをせずにシミュレーションと同等の結果を導いたり、結果を変換して得られるリスク因子(この場合は血流速度の変化など)を推論したりする機械学習モデルです。
さらにこの課題では、シミュレーションや機械学習の対象とする脳内液体を、脳梗塞や脳動脈瘤などに関係する血液だけでなく、水頭症に関連する脳脊髄液やアルツハイマー型認知症と関連する脳間質液にも広げています。
これらの研究の最終的なゴールとして、伊井さんたちが目指しているのは「ヒト脳循環デジタルツイン」の構築です図5。「ここまでの話は、個人の脳循環のデジタルツインをサイバー空間につくり、血管壁面のせん断応力などのリスク因子の値を求めてリスク予想に利用しようということでした。そのデジタルツインを大勢の人について集めたものが『ヒト脳循環デジタルツイン』で、個人の脳循環データから求めたリスク因子の値と、病気の進行の情報を集めたデータバンクのようなものです。個人のデジタルツインから『ヒト脳循環デジタルツイン』に照会することで、個人のデジタルツインだけではできない、病気の進行の予測が可能となります」と、伊井さんは説明します。
ただし、こうした研究は工学系研究者のみでは実現できないため、伊井さんの課題には、名古屋市立大学の山田茂樹講師や滋賀医科大学の渡邉嘉之教授らをはじめとする医学系研究者が参加しています。医学系研究者と連携して、臨床データの収集を進め、病気と脳循環との関係解明に迫っているのです。
伊井さんが東京工業大学に着任したのは2024年4月。時を同じくして東京工業大学では、「TSUBAME 4.0」が稼働を開始しました写真1。「TSUBAME 4.0」には機械学習に適した高性能のGPU(演算装置の一種)が搭載されています。「脳循環デジタルツインの研究では、『TSUBAME 4.0』もぜひ使ってみたいと考えています。演算装置がCPUの『富岳』とは異なる使いこなしが必要になりますが、それぞれの強みを活かして研究を進めていきたいです」と伊井さんは目を輝かせます。病院でお医者さんから、「ヒト脳循環デジタルツインへのデータ提供をお願いできますか?」と聞かれる日も近いかもしれません。
MRIの撮像法の一つである位相コントラスト(phase contrast; PC)法による MRI。血流速度を反映した画像が得られる。 本文
研究課題名: | 全脳血液循環シミュレーションデータ科学に基づく個別化医療支援技術の開発(hp220161) |
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課題代表者: | 大阪大学 和田 成生 |
研究課題名: | 「富岳」で実現するヒト脳循環デジタルツイン(hp230208) |
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課題代表者: | 東京工業大学 伊井 仁志 東京工業大学と東京医科歯科大学は2024年10月に統合し、東京科学大学となる。 |
シミュレーションの専門家として活躍する伊井さん。意外にも、入学時に買ったパソコンを大学3年生までほぼ開かず、レポートもほとんど手書きしていたそうです。研究室を選ぶ際に昆虫の飛び方のシミュレーションをする研究を知り「見えないものの流れがシミュレーションでこんなにわかるのか」と感動。シミュレーション研究の世界に入りました。その後、シミュレーションの技法そのものの研究期間を経て、何かの役に立つシミュレーションをしたくなり、生体シミュレーションの道へ。流体、力学といった物理にシミュレーションを掛け合わせたアプローチで、生体の複雑な現象を解き明かせることに「感銘を受けた」と当時を振り返ります。休みの日の息抜きには最先端のプログラミングに挑戦するという伊井さん。頭痛がするといろいろな病気とその循環液の様子がついつい頭をよぎってしまうのだそうです。
COLUMN CONNECTは、計算科学の研究者によるリレー形式のコラムです。
研究者になったきっかけ、転機となった出来事、現在の研究内容などを研究者自身に綴っていただきます。
名古屋大学大学院理学研究科
理学専攻物理科学領域
助教
白戸 高志さん
私は幼稚園児の頃から、パイロットになって飛行機の操縦かんを握るのが夢でした。小学生の頃、担任の先生から「お前はパイロットじゃなくて研究者に向いているんじゃないのか?」と言われましたが、全く眼中になく、むしろ反抗心から「研究者になど死んでもなるものか!」と思っていました。
飛行機への憧れに駆られた白戸少年が進学先として、東北大学工学部機械知能・航空工学科を選択したことは、ごく自然な成り行きと言えるでしょう。転機が訪れたのは学部2年生のある冬の日のこと、母方の祖母が亡くなったという旨の電話でした。危篤の知らせを受け、母を助手席に乗せた父は高速道路を免停覚悟で飛ばして駆けつけましたが、おそらく母のことを待っていたのでしょう、病室に到着した5分後に息を引き取ったと聞かされました。私はハッとしました。故郷を捨てて、両親を看取ることを諦めてまで、パイロットになりたいと思う気持ちが、私には無いと気づいてしまったためです。自問自答を繰り返し、この地球上で私にしかできない仕事がしたいと考えるようになりました。その結果、たどり着いた答えは、小学生の頃に「絶対になるもんか」と思っていた研究者でした。
飛行機へのこだわりから解き放たれた白戸少年は、どうせ研究するならば死ぬまでに実現できないようなデカいテーマにチャレンジしたいと考えました。もしも実現したら、全人類をエネルギー問題から解放できる「制御核融合」こそ私の人生を捧げるのにふさわしいと考え、その核心である「炉心プラズマのダイナミクスの数値シミュレーション研究」を大学院での研究テーマに選びました。東北大学の学生だった頃はレーザー核融合のみを扱ってきましたが、学位取得後は大阪大学を経て、量子科学技術研究開発機構で磁場閉じ込め核融合研究に従事し、現在の名古屋大学ではレーザーと磁場の二刀流で研究しています。実験装置の制約から解放された数値シミュレーションの専門家であるからこそ、レーザーと磁場という対極なプラズマを相手に活躍することができたと実感しております。
次は、東北大学の学生だった頃に同じ専攻だった友人の東北大学大学院工学研究科の淺田啓幸さんに繋ぎたいと思います。