Vol.13

新奇物質探索を後押し
強相関電子系を精密に計算する
ソフトウェア「mVMC」

東京大学物性研究所
助教
井戸 康太 研究者紹介

2023年5月、第1回となるHPCIソフトウェア賞が発表され、開発部門賞の最優秀賞にmVMCというソフトウェアが選ばれ、開発チームが表彰を受けました。mVMCは、互いに強く影響し合う電子の状態を、効率的かつ精度よく計算することができます。「この特徴を生かして、新奇物質の探索が可能です」と話すのは、mVMCを開発してきた主要メンバーの一人である井戸さん。新材料の評価や開発を目指す人たちに使ってもらいたいと考えています。井戸さんの研究のよき相談相手であり、mVMCのオープンソース化などに尽力してきた東京大学物性研究所 特任准教授の三澤貴宏さんにも加わっていただき、ソフトウェア開発の経緯や特徴を聞きました。

1000個規模の強相関電子系の計算が可能に Capable of Simulating Strongly Correlated Electron Systems with Up to 1,000 Particles

「mVMCは、一言でいうと、『物質中の電子の状態を高精度に予測するシミュレータ』です」と井戸さん。この世の中にある物質の性質の多くには、物質中の電子状態が関係しています。身近な例を挙げると、金属に電気が流れるのは自由に動き回る電子があるからで、磁石が決まった方角を指すのは電子の回転方向であるスピンが揃っているからです。そのため物質のマクロな性質をミクロな粒子の性質やふるまいに基づいて探究する「量子物性物理学」では、電子の動きの解明が非常に重要です。

なかでも、一般的な物質中の電子に比べて電子どうしの相互作用が非常に強いことが特徴である「強相関電子系」では、超伝導や量子もつれといった特異な現象が生じることが知られています。今後の社会の発展のために、エネルギーロスの少ない配線用の超伝導体や、量子コンピュータ実現に必要な強い量子もつれを示す量子物質などの材料開発が進んでいるため、その基礎となる強相関電子系のシミュレーションの重要性が増しています。

しかし、強相関電子系の電子の状態を計算する場合、計算量は電子数の増加に伴って指数関数的に増えていきます。そのため、厳密に扱える電子数はこれまで20個程度が限界であり、より多くの電子数を取り扱うためには、近似を用いる必要があります。電子間の相互作用が強くない場合には、近似を用いてもある程度正確に計算できますが、強相関電子系の電子状態の計算に近似を導入すると、正確性が大きく損なわれてしまいます。この問題に対処し、電子1000個規模の状態を精度よく取り扱えるようにしたのが、mVMCというソフトウェアです。

mVMCは、ソフトウェア名の由来でもある多変数変分モンテカルロ法(many-variable variational Monte Carlo method)を実装したソフトウェアで、長く開発が進められてきました。最近になって井戸さんや三澤さんらの手で、1000個程度の電子の状態を効率よく表現できるよう拡張されただけでなく、ユーザーインターフェースの整備や結果の可視化など使いやすい機能も搭載されて、誰でも使えるオープンソースになりました。今後、高温超伝導体や量子物質などの新奇物質の発見や開発を目指す人に広く使われることが期待されています。こうした量子物性物理学への貢献が認められ、mVMCは2023年度のHPCIソフトウェア賞(囲み)を受賞しました写真1

写真1HPCIソフトウェア賞(開発部門賞)最優秀賞の賞状をもつ井戸さんとトロフィーをもつ三澤さん

HPCIソフトウェア賞

一般社団法人HPCIコンソーシアムが2023年に新設したこの賞は、計算科学分野の発展に貢献し、特に有益と認められたソフトウェアの若手を中心とした開発団体、普及に貢献した団体に贈呈するものです。開発部門賞と普及部門賞があり、今回、開発部門賞の最優秀賞をmVMCの開発チームに授与しました。

HPCIコンソーシアム理事長
富田浩文

先人たちの積み重ねの上に花開いたソフトウェア Software Blossoming on the Foundation of Previous Generations’ Efforts

そもそも、電子の状態はどうやって計算するのでしょうか。電子の状態は、波のように広がった波動関数(Ψ)というもので表され、シュレーディンガー方程式を解くことで求まります図1。この方程式では、電子が置かれた環境(例えば、固体中で原子がどのように配置されているか)をハミルトニアンという演算子(H)で表します。この方程式を解くと、波動関数のエネルギー(E)も求まります。

図1シュレーディンガー方程式

電子のようなミクロの世界は量子力学のルールに従う。シュレーディンガー方程式は、量子力学に基づいて、電子などのミクロな粒子の状態を計算するための方程式。

ただし、シュレーディンガー方程式を厳密に解くことができるのは、電子を1個含んだ水素原子のような特別な場合に限られています。このため、物質中の多数の電子を対象とする物性物理学などの分野では、なんらかの近似をすることでこの方程式を解いてきました。しかし、上述の通り、強相関電子系の場合、多くの電子を扱おうとして近似をすると正確性が著しく損なわれてしまい、新しい物質の設計に役立つような計算結果を得ることは難しかったのです。

それを解決したのがmVMCですが、井戸さんたちの受賞に至るまでには長い道のりがありました。

多数の電子の状態を表すために古くから使われてきたのは、「試行波動関数」と「モンテカルロ法」を組み合わせて使う「変分モンテカルロ法」です。この手法では、まず電子の状態を仮定し、それを表現する試行波動関数を作成します。次に、試行波動関数のパラメータを変えながらエネルギーを求める計算を繰り返して試行波動関数の最適化を図り、エネルギーが最小となる波動関数を求めます。その際、試行波動関数の形状によってはエネルギーを厳密に計算できないので、モンテカルロ法を用いてエネルギーなどの期待値を予測します。計算機の発展に伴い、現在では1000個程度の電子の状態を計算できるようになってきました。ただし、多数の電子の状態を正しく表現できるかどうかは、仮定した試行波動関数に依存します。精度をよくするために試行波動関数のパラメータの数を増やすと計算量が増えて計算できなくなってしまうため、試行波動関数に導入できるパラメータの数は少なく抑えられてきました。

「2001年にイタリアのサンドロ・ソレラ先生がよい最適化方法を提案され、パラメータを増やすことが可能になりました。さらに、このアプローチを発展させて、2008年に東京大学の田原大資さんと今田正俊先生(現 早稲田大学理工学術院総合研究所上級研究員/研究院教授、上智大学理工学部客員教授)が『多変数変分モンテカルロ法』を提案され、パラメータをたくさん導入して波動関数の表現能力に柔軟性を与え、精度を上げることが可能になったのです。パラメータが少ないときは、例えばスピンの揃う向きに制限があるといった『決め打ち』の試行波動関数からスタートしていましたが、2008年以降は、パラメータが増えていろいろな状態を一つの形式で表現できる試行波動関数を使うことが可能になり、より複雑な電子の状態を柔軟に表現できるようになりました」と、井戸さんは説明します。

「ただし、この当時は内部で利用する計算コードという感じでした。三澤先生が2016年に東京大学物性研究所のソフトウェア開発・高度化プロジェクトの支援を受け、ソフトウェアとして外部に公開できるような形にされたのです。このように、mVMCの開発には、これまで多くの人が関わってきました。それに加えて、私は試行波動関数の精度の向上や多機能化を図りました。長年の蓄積がなければ、ここには至っていません」と井戸さんは謙虚です。しかし、三澤さんは「相互作用する1000個の電子の状態を計算するには、少なくとも21000の計算量を要します。これは宇宙が始まった瞬間にスーパーコンピュータ『富岳』を動かし始めたとしても、いまだに計算が終わらないほどのスケールです。井戸さんは、強相関電子系の本質を失うことなく、しかも現実的な時間で計算する方法を考えたのです」と、井戸さんの功績をたたえます写真2

写真2mVMCの開発を振り返る井戸さんと三澤さん

mVMCを使い大きな成果 Achieving Significant Results Using mVMC

2022年4月、井戸さんたちは、「mVMCを使って有機固体に生じる量子スピン液体の特異な性質を解明した」という成果をプレスリリースしました。有機固体とは、有機化合物が規則正しく並んだ物質のことで、構成単位である有機化合物が複雑な分子である場合、有機固体も複雑な構造となります。例えば、今回の研究対象である有機固体Pd(dmit)2 塩は、Pd(dmit)2で構成される金属錯体層とカチオン層が交互に積み重なっており図2a、カチオン層の化合物を変えることで、物質中の電子スピンの並びが定まっている磁性相から、スピンの向きが定まらない量子スピン液体相へと変化することが実験的に知られています。

量子スピン液体は強い量子もつれ※1※1 2個のミクロの粒子の間に強い結びつきができる現象。一方の状態が決まると、他方の状態も決まる。を示すことから、量子コンピュータへの応用が期待されるなど、今、注目を集めています。Pd(dmit)2塩では、カチオン層の種類によって電子スピン間のフラストレーション※2※2 結晶構造によって電子スピン配列が不安定になる現象。が変化して、金属錯体層の磁性を担っている電子スピンが安定しなくなり、量子スピン液体を生じるのだろうと言われていましたが、その出現条件も詳しい性質もほとんど分かっていませんでした。

図2a有機固体EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2の結晶構造の拡大図

有機固体Pd(dmit)2塩の一つであるEtMe3Sb[Pd(dmit)2]2の結晶構造。EtMe3Sbのカチオン層と、[Pd(dmit)2]2の金属錯体層が交互に積み重なっている。Etはエチル、Meはメチル、Sbはアンチモン、Pdはパラジウム、dmitは1,3-dithiole-2-thione-4,5-dithiolate。金属錯体層では、Pd(灰色の球)を2個のdmitが取り囲んでいる。

そこで井戸さんたちは有機固体Pd(dmit)2塩を5種類選び、mVMCを使って計算を実行しました。こうして物質中の電子の状態をコンピュータ上に再現したところ、量子スピン液体の出現条件が明らかになり、既存の実験結果と一致しました図2bさらに、量子スピン液体の性質を詳しく調べたところ、量子デバイス開発に生かせる新たな知見も得られました。

図2出典:Ido, K., Yoshimi, K., Misawa, T. and Imada, M. Unconventional dual 1D–2D quantum spin liquid revealed by ab initio studies on organic solids family. npj Quantum Mater. 7, 48 (2022). https://doi.org/10.1038/s41535-022-00452-8

図2b有機固体Pd(dmit)2塩の相図

縦のパネルは、本研究で計算した量子スピン液体相と磁性相のエネルギー差(縦軸)が、電子スピン間のフラストレーションの強さ(横軸)にどう依存するかをプロットしたもの。縦軸の値が負のとき、量子スピン液体が実現する。下のパネルは、磁性相になることが実験で観測された温度(転移温度)とフラストレーションの強さの関係をプロットした。青色とオレンジ色で塗られた領域は、それぞれ実験で観測された磁性相と量子スピン液体相が現れる領域を示している。縦のパネルの色分けは、下のパネルの色分けを延長したものである。Me4P、Me4As、Me4Sb、Et2Me2Sb、EtMe3Sbはそれぞれの有機固体Pd(dmit)2塩に含まれるカチオン分子。カチオン分子が変わると、プロットも変化する。赤で示したEtMe3Sb[Pd(dmit)2]2だけが量子スピン液体を生じており、実験結果を計算で再現したと言える。

図2出典:Ido, K., Yoshimi, K., Misawa, T. and Imada, M. Unconventional dual 1D–2D quantum spin liquid revealed by ab initio studies on organic solids family. npj Quantum Mater. 7, 48 (2022). https://doi.org/10.1038/s41535-022-00452-8

ソフトウェアのさらなる高度化を目指して Aiming for Further Advancement of the Software

「さまざまな分野のソフトウェアの中から賞に選ばれたので、いただいた賞の名に恥じないようにmVMCをしっかり発展させていきたいと思っています」という井戸さん。すでにmVMCの高度化を進めています。実は、上述のプレスリリース研究では、試行波動関数の最適化の際に人工ニューラルネットワークを活用しました。その結果、計算精度が上がったため、公開中のmVMCに人工ニューラルネットワークの機能を標準装備することを計画しています。

また、プレスリリースの研究も含め、これまでは波動関数としてエネルギーが最も低い基底状態だけを解いてきました。しかし、電子の状態を知るための実験方法には、光や中性子などを照射し、励起状態(基底状態よりエネルギーの高い状態)となった電子の情報を得るものが多くあります。実験とシミュレーションの比較を通して電子の状態を明らかにしていくには、励起状態の電子も計算できるようにすることが欠かせません。このため、励起状態の電子を表現できるようにすることが、井戸さんの今後の大きな目標であり、令和5年度「富岳」成果創出加速プログラムの課題(hp230213)の中で研究に取り組んでいます。

量子物性物理学のシミュレーションでは、自分の研究対象物質をハミルトニアンで表現し、シュレーディンガー方程式を解きます。mVMCは、電子状態を柔軟に表現できるため、プレスリリースの量子スピン液体だけでなくさまざまな強相関電子系に適用できる上に、研究対象物質の情報を簡単に入力できるので、すでに海外も含め、いくつかの研究グループが使い始めているそうです。さらに、「『富岳』のようなスーパーコンピュータでなくても、このソフトウェアは使えます。重要なのは、皆さんがどのようなハミルトニアンでmVMCを動かすかであり、仮に電子数が少なくても面白い現象が明らかになる可能性が十分にあるのです」と三澤さんは期待を寄せています。

先人たちの積み重ねを井戸さんや三澤さんが発展させ、多くの人に自由に使ってもらえるソフトウェアとして花開いたmVMC。さらに高度化され、HPCIだけでなく多くのコンピュータ上で使われることで、量子物性物理学の研究に大きく貢献していくことでしょう。

2個のミクロの粒子の間に強い結びつきができる現象。一方の状態が決まると、他方の状態も決まる。本文

結晶構造によって電子スピン配列が不安定になる現象。本文

研究課題名:量子凝縮系のためのAI数値分光学で挑む量子縺れ構造の解明(hp230213)
課題代表者:物質・材料研究機構 山地 洋平
研究課題名:量子物質の創発と機能のための基礎科学―「富岳」と最先端実験の密連携による革新的強相関電子科学(hp200132/ hp210163/ hp220166)
課題代表者:早稲田大学理工学術院総合研究所 今田 正俊

研究者紹介

東京大学物性研究所 助教 井戸 康太

「趣味も研究です」と話す井戸さん。常に複数の研究を並行して進めており、そのうちのいくつかが息抜きになるのだそうです。「面白いと思えることなら、障壁が高くても息抜きになるんです。うまくいったら『やったー』という感じで」。学生時代、研究者になるつもりはありませんでした。就職前に「技術を身につけておこう」と軽い気持ちで難しいシミュレーション技術に携わり、すっかりはまったのだとか。その頃の情熱は今も尽きることがなく、今回の開発や成果へとつながりました。

COLUMN Connect

COLUMN CONNECTは、計算科学の研究者によるリレー形式のコラムです。
研究者になったきっかけ、転機となった出来事、現在の研究内容などを研究者自身に綴っていただきます。

京都大学 基礎物理学研究所
特定研究員

上島かみじま 翔真しょうまさん

偶然と幸運

「おい翔真、一緒にオーロラ見に行こうぜ!」という高校の友人の言葉が、宇宙の研究者を目指す大きな転機になりました。私の高校はスーパーサイエンスハイスクールという文科省のプログラムの指定校で、高校2年時に、大学受験の文理のクラスに加え、科学教育を重視した特別なカリキュラムの理系特化クラスも選択できました。特別なカリキュラムの一つである数日間のアラスカ研修は、オーロラ観測やアラスカ大学で講義を受けるものでした。私は理系特化クラスに志願するか迷っていましたが、冒頭の友人の誘いで吹っ切れ、「OK!行こう!」と即答して理系特化クラスに入りました。実際のオーロラは衝撃的で、頭上で揺らめくオーロラのカーテンに強く感動し、宇宙への興味が膨れ上がりました。大学受験では、宇宙の研究室はあるけれど第一志望ではない大学に進むことになり当時悶々としました。しかしこれは結果的に大成功で、疑問をふっかければ一緒に考えてくれる気のいい仲間達と熱心で面白いスタッフ陣に運良く出会えました。特に、現在も一緒に研究する教員と宇宙線という研究テーマに出会えたことは幸運と言う他ありません。宇宙線は宇宙空間に漂う高エネルギー荷電粒子で、その最高エネルギーは人類が加速器で作り出せる最高エネルギーの約1000万倍に及びます。しかし宇宙線発見から100年以上経った現在でも、「高エネルギー宇宙線がどこでどのように作られるのか」という単純な問いに未だ完璧な答えを出せていません。私は宇宙線の起源解明を目指し、超新星残骸という星が爆発した後に残る天体で実現する宇宙線の最高エネルギーについて数値シミュレーションを用いて研究してきました。振り返れば多くの偶然と幸運に恵まれ、初めての数値シミュレーションに四苦八苦しながらも沢山の人に支えられて充実した研究生活を送れました。今後自分がどんな偶然に遭遇するのかを楽しみに、また、誰かの偶然や幸運の一部になれるように研究に邁進したいと思います。

次回は、同じ研究グループに所属する同期で、これまでは大阪大学でレーザープラズマの数値シミュレーションを行っていた、京都大学基礎物理学研究所の杉本馨研究員にCONNECTします。