vol.8
流れの高忠実なシミュレーションで
航空機設計にイノベーションをもたらす
私たちの身の回りにはいつも空気や水の流れがあります。ふだんあまり意識することはありませんが、流れをうまく利用した技術や製品は、私たちの生活を便利で豊かなものにしています。その代表例が航空機です。河合さんたちは最近、コンピュータにより航空機周りの空気の流れをこれまでより圧倒的に高い忠実度で数値シミュレーションすることに成功しました。これは、スーパーコンピュータ「富岳」の性能と、河合さんたちが長年にわたって積み上げてきた基礎研究が融合することで達成された成果であり、航空機の設計に革新をもたらすと期待されています。
大学院時代からの夢の一端を
つかむことができた
河合さんは航空機空力設計の歴史と現状をこう説明します。「航空機の空力設計にコンピュータによる数値流体シミュレーションが使われるようになったのは1980年代以降です。それ以前のボーイング767までは風洞試験に依存した設計がなされていたので、莫大なコストと時間がかかっていました。数値シミュレーションの導入はそんな航空機空力設計に革新をもたらしましたが、シミュレーションで予測できるのは、現在でも航空機が滑らかな形状であり、かつ、流れに乱れの少ない巡航状態付近だけです。このため、複雑な形状と乱れの多い離着陸時の航空機について、機体全体の周りの流れのシミュレーション(全機シミュレーション)が可能になれば第二の革新が起こると、航空機メーカーは期待しています」。
航空機は離着陸の際に揚力をより大きく得るために機体の頭を上げるので、航空機設計においては機体の傾き(迎角)と揚力の関係を予測することが重要です。特に揚力の最大値は、滑走距離がどのぐらい必要かといった離着陸性能や安全性に大きく影響します。そこで、揚力の値が精度よく得られ、実機飛行試験を置き換えられるレベルの航空機全機シミュレーションが期待されています。しかし、その実現は簡単ではありません。
流れはナビエ-ストークス方程式に従い、この方程式を数値的に解くラージ・エディー・シミュレーション(LES)という手法があります。LESでは対象物の周りの空間を格子で区切り、エネルギーの大きい主要な渦(乱流)を格子で直接計算します。河合さんは、博士課程に進学した2002年にLESの研究を始め、博士号を取得した2005年頃に航空機全機周りの流れをLESで解析したいと考え、研究を開始しました。当時、日本の航空宇宙分野でLESに取り組んでいる人はいなかったそうです。以来、河合さんは共同研究者たちとともに地道に基礎研究を積み重ねて「FFVHC-ACE」というソフトウェアを開発し、最近、「富岳」でこのソフトウェアを用いて、航空機全機周りの流れの高忠実な(物理的により正確な)シミュレーションに成功しました(図1)。さらに、このシミュレーション結果から求めた揚力の最大値は、実験データとよく一致しました。航空機メーカーの期待に応えうる成果が、いよいよあがり始めたのです。
図1
FFVHC-ACEによる航空機シミュレーションの例
(a)航空機形状モデルとしてJSM(JAXA Standard Model)を用い、機体の周りに約120億の格子点を設けて流れを計算した。FFVHC-ACEには、自動格子生成機能が備わっている。このときの最小の格子幅は250μm。この計算では「富岳」3456ノードを用いて流れのデータ取得に約2日間を要した。主翼周りの流れの渦(乱流)や、エンジンナセルからの縦渦などがよく再現されている。(b)青丸は、このシミュレーションから得られた最大揚力付近の揚力。実験値とよく一致している。
困難なシミュレーションを、基礎研究と「富岳」が可能にした
これまで、航空機周りの流れの高忠実シミュレーションが難しかったのはなぜでしょうか。理由の一つは、流れのレイノルズ数が10の7乗程度と非常に大きいことです。レイノルズ数とは流れの「流れる影響(慣性力)」と「粘性の影響(粘性力)」の比で、この数値がある値を超えると流れに渦(乱流)が発生し、値が大きいほど渦は小さくなります。「LESは乱流現象をほぼ直接的にシミュレーションする方法なので、予測精度は高いのですが、小さい渦を計算するには格子を小さくする必要があるので、計算に必要な格子点数が莫大になり計算コストが跳ね上がります」。
特に、機体の壁付近では渦が小さくなるため、河合さんは壁付近の小さい渦の影響を正確に反映する物理モデルを基礎研究で構築しました(図2a)。「機体表面のごく近くでだけ、LESの計算をこのモデルでの計算に置き換えました。これにより、計算時間を約1万分の1に短縮することができました。このモデル化をしなければ、『富岳』の全ノードを使っても、航空機全機の計算はできませんでした」と、河合さんはモデル化の意味を説明します。
高忠実なシミュレーションが困難なもう一つの理由は、航空機周りの流れは圧縮性流体として扱う必要があることです。「圧縮性流体の流れの計算は不安定化しやすいため、既存のソフトウェアでは人工的な拡散を与える数学的操作で計算を安定化させています。しかし、この操作により、乱流は物理に反して減衰してしまい、正しい結果が得られなくなるのです」。
この問題への対策として、河合さんたちは「KEEP(Kinetic-Energy and Entropy Preserving)スキーム」と名付けた計算手法を基礎研究で確立しました。圧縮性流体のシミュレーションでは、通常、流れが質量保存則、運動量保存則、エネルギー保存則を満たすという条件で計算します。これらに加え、運動エネルギー方程式とエントロピー保存則も満たす計算手法がKEEPスキームです(図2b)。KEEPスキームを使うことで、人工的な拡散を加えなくても計算を安定に行えるようになり、物理的により正しい結果が得られるようになりました。
「大規模な計算が必要とされる流体解析では、もともとスパコン利用が進められてきましたが、『富岳』はとても使いやすいですし、大きな計算がスムーズに流れる点でもよい計算機だと思います。今回の成果は、私たちが長年続けてきた基礎研究と『富岳』がよいタイミングで出会い、両者の『かけ算』で生まれたものだと考えています」と、河合さんは言います。
図2
高忠実なシミュレーションを可能にした2つの基礎研究
(a)機体表面に発達する乱流境界層の厚み(δ)は、主翼の前縁から10%の位置で3.5mm程度だが、その10分の1以下の領域(赤い網で示す)をモデル化し、他はLESで計算する。これにより、境界層の厚みのすべてをLESで計算する場合と比べ約1万倍の高速化となる。(b)通常の圧縮性流体のシミュレーションは、質量保存則、運動量保存則、エネルギー保存則を満たすという条件で計算するが、さらに、運動エネルギー方程式とエントロピー保存則を満たすように離散化を工夫する計算手法。これにより、安定で高忠実なLES計算が可能になった。
空を超えて広がる夢
河合さんたちは、FFVHC-ACEをいくつかの航空機の機体形状モデルに適用し、いずれも最大揚力などが実験とよく一致することを確かめています。「FFVHC-ACEは、世界的に見ても非常に高性能な圧縮性流体のLES解析ソフトウェアだと自負しています。しかも、産業界の方も形状データを用意するだけで、高速かつ容易に、高品質な複雑形状 LES 計算ができるのです。実際、三菱重工グループはこのFFVHC-ACEと航空機SpaceJetの形状データを用いて、『富岳』でのシミュレーションに成功し、実機飛行試験データともよい一致が得られています(図3)」。
ただし、河合さんは今回の成果で満足しているわけではありません。「今後は、離着陸性能だけでなく、高速飛行限界や着陸進入時の空力騒音、フラッター現象(空気の力で起こる翼の激しい振動現象)の予測にも取り組み、FFVHC-ACEが航空機設計の現場で使われることを目指して研究を進めます」と意気込みを語ります。
さらに、そうしたシミュレーションが実現した先には、もっと大きな夢があります。「これまでの航空機空力設計は経験に依存する部分が大きかったので、過去の航空機とまったく違う形の航空機を開発するのはリスクが高かったのですが、シミュレーションでさまざまな性能をきちんと予測できるようになれば、それが可能になるとも考えています。こんな形の飛行機があったらという『想像』を、実際の『創造』に変えられればうれしいですね」。
一方、河合さんは、「FFVHC-ACEを、航空機周りだけでなく、圧縮性流体解析に広く使える基盤ソフトウェアとして公開し、広く学術界から産業界まで使ってもらえるようにしたい」という希望も持っています。圧縮性流体の関わる工学分野の対象は、高速鉄道や発電用タービン、ノズルやディフューザ、ジェットエンジンやロケットまで幅広くあります。圧縮性流体のシミュレーションでは、空気の粗密波である音が直接求まるため、産業界でよく問題となる騒音の低減策をシミュレーションから探るといったことも考えられます。
河合さんが20年前に抱いた夢は、地道な基礎研究と「富岳」の登場で現実のものとなりつつあります。そして今、航空機という枠を超えて産業界に広がり、大きなイノベーションを起こそうとしているのです。
図3
FFVHC-ACEの産業利用
三菱重工グループ(三菱重工と三菱航空機)が、FFVHC-ACEを航空機SpaceJetの形状データに適用し、「富岳」でシミュレーションを行った。河合さんはアドバイスをしただけで計算には直接関わっていないが、シミュレーションは成功した。最大揚力は実機飛行試験のデータとよく一致しており、FFVHC-ACEが学術研究から産業利用までの使用に耐えうる高忠実な圧縮性流体のLES 解析ソフトウェアであることが示された。画像提供:三菱重工グループ
研究者紹介
河合さんが大学の航空宇宙工学科に進んだのは、子どもの頃からのパイロットへの憧れからでした。このため、学生生活をエンジョイしてしまい、4年生で研究室に配属されたときには何も知らない自分に愕然としたそうです。「このまま社会に出てはいけない」との思いから博士課程まで進みましたが、すっかり研究のおもしろさに魅了され研究者になりました。博士研究員として行くはずだったアメリカの留学先が同時多発テロの影響で変更になるなど、道のりは平坦ではありませんでしたが、「変更になった留学先で出会った研究者と圧縮性流体の計算法や壁面モデルLESを開発するなど、さまざまな人との出会いに恵まれてきました」。自然の中で過ごすことが大好きで、アメリカ留学時代には頻繁に国立公園に足を運んでいたという河合さん。今は仙台にいても東北の自然に触れる時間がなかなか取れないことを残念がっています。
研究課題名:
航空機フライト試験を代替する近未来型設計技術の先導的実証研究(hp200137/ hp210168/ hp220160)
課題代表者:東北大学大学院工学研究科 河合 宗司
モデルシミュレーションに惹かれて
私は幼い頃から空を観察するのが大好きだった気象少年でしたが、そんな私が気象のシミュレーションに初めて強く関わったのは大学4年生の前期に履修した演習でした。台風の発達過程のエッセンスを説明した古典的な数理モデルの振る舞いを、自分で一からプログラミングして追試するという課題で、激しい気象現象のメカニズムを理解したいという興味と、コンピュータを触るのは好きだった性格とがマッチして、日夜問わず没頭したことを覚えています。当時は困難の連続で、プログラミングのミスや数式同士の不整合のために、なんと 1000 m/s を超える風が吹いて計算が破綻するという事態に悩まされたりもしましたが、試行錯誤の末にある日ふと原因に気づき、無事にモデルが完成した時の喜びは今でも忘れられません。
モデルを「作る」ことの大変さと面白さ、そして粘れば自分にもできるかもという感触を得た経験でしたが、大学院では全球雲解像モデルNICAMを「使った」気象の研究にのめりこみました。当時の(そして今でも思い入れのある)研究対象は、熱帯を旅する巨大な雲の群れであるマッデン・ジュリアン振動(MJO)という現象で、日本の天候にも大きな影響を与える要因ですが、発見から50年以上たった今もなおそのメカニズムが分かっていません。MJO含め、気象はそのメカニズムを解きほぐすには複雑である一方、現実の地球大気をそのまま「実験室」として仮説を検証することは(地球に手を加えない以上は)できないので、仮想地球のモデルは大変魅力的な道具でした。一方で、実際の現象と丁寧に向き合うことも大事にしたかった私は、観測データの解析から示唆された仮説をモデルのシミュレーションで検証する、逆にモデルから現象のメカニズムのヒントを得て現実の大気でどうなっているかを確かめる、この両輪を常に回す研究スタイルを確立して、種々のプロセスの相互作用のもとに生起するMJOの理解に対し、いくらか新しい視点を吹き込めてきたかなと思っています。
現在は、「富岳」を使って気候予測の不確実性低減を狙う全球雲解像気候シミュレーションという前人未踏の課題の達成に向けて、モデルを少しでも「良くする」ことに携わるようになりました。今までもっぱらモデルを「使う」側にいた私ですが、モデル作りに初めて接した大学時代の興奮と、自分の研究道具をケアすることの大切さを忘れずに、自分の研究フィールドを広げながら良いサイエンスを進めていきたいと考えています。
次回は、私の大学・大学院時代の同期であり、大規模数値計算を活用した高エネルギー宇宙物理の研究に取り組んでいる、九州大学大学院総合理工学府の岩本昌倫博士研究員につなぎます。
赤道域で平均した、雲活動の指標となる外向き長波放射の時間変化の例。MJOは赤矢印で示した東に進む雲活動のことである。