vol.6 第一原理分子動力学シミュレーションで
水界面を科学する

第一原理分子動力学シミュレーションで水界面を科学する

水と他の物質が接する「水界面」では、界面特有のさまざまな現象が生じ、多くの化学反応が起こる舞台になっています。しかし、それらが起こるメカニズムの多くは、まだよく分かっていません。この「界面の謎」に分子一つ一つの動きを追う密度汎関数法を基にした「第一原理分子動力学(第一原理MD)シミュレーション」を使って挑んでいるのが、大阪大学の大戸さんです。HPC(High Performance Computing)*1を使った大規模シミュレーションと実験による検証を組み合わせ、光触媒反応の解明や水界面シミュレーションに適した計算手法の探索など、水界面の第一原理MDのフロンティアを広げる研究を進めています。

大戸 達彦

大阪大学大学院 基礎工学研究科
物質創成専攻 未来物質領域
助教

大戸おおと 達彦たつひこ さん

「水界面」はさまざまな化学反応の舞台

「水界面」とは、水と他の物質が接する境界面のことです。ここではそれぞれの物質単体では見られない、水界面特有の現象が現れることがあります。例えば、アメンボの足と水面の間に生じる表面張力や、蓮の葉が水をはじく「撥水性」は、界面で現れる現象です。

また、水と固体の界面は、触媒反応や電気化学反応などの化学反応が起こる舞台となり、さまざまな産業技術とも深くつながっています。例えば、電池の電極と電解液の間の界面の性質は電池の性能に大きな影響を及ぼします。また、クリーンエネルギーとして注目される水素を効率よく生成するためには、触媒と水分子の界面の理解が重要になります。

このような水界面での現象を、第一原理MDシミュレーションによって解明する取り組みを行っているのが、大阪大学の大戸さんです。

「界面は、水分子数個分の厚みしかない非常に薄い領域です。それだけ分子数が少ないと実験での観測は非常に困難です。一方で、水の原子や分子一つ一つの動きを追跡できる『MDシミュレーション』は、界面での現象を調べる非常に有力な方法になると考えています」

分子一つ一つの動きをシミュレーションで追う

これまでのMDシミュレーションの多くは、原子間の相互作用をバネ力のような単純な関数で近似していました。これは「古典力場による近似」と呼ばれます。しかし、バネ定数のようなパラメータは、界面から離れた領域の水で得られた値しかなく、それらの値が界面でも正しいという保証はありませんでした。

そこで、大戸さんが用いたのは、実験で求めたパラメータを使わずに密度汎関数法による電子状態計算によって得られる力をもとにした「第一原理MD」シミュレーションと呼ばれる方法です。

「シミュレーションで界面の分子構造が分かっても、それが正しいことを実験で示さなければ机上の空論になってしまいます。そこで界面の分子振動をとらえる『和周波発生(SFG)分光』の実験を行って、実験と計算でお互いに確かめ合いながら界面の解明を進めました」

解説1

和周波発生分光実験

大戸さんは、第一原理MDシミュレーションの結果を「和周波発生(Sum Frequency Generation:SFG)分光」実験を使って検証した。SFGでは赤外線と可視光線を同時に入射し、界面での反射光を計測する。2つの入力光の周波数の和の周波数を持つ反射光は、赤外線の周波数と界面の分子振動の周波数が等しい時のみ発生する。この性質を利用して、入射周波数を変えて得られる反射光スペクトルの形状や強度を、シミュレーションの結果と比較した。

和周波発生分光の実験設備(左)と同実験の模式図(右)

和周波発生分光の実験設備(左)と同実験の模式図(右)。実験は、大戸さんの共同研究先である、独・マックスプランクポリマー研究所が行った。

第一原理MDシミュレーション(下図)と実験(上図)での和周波発生分光スペクトルの比較

第一原理MDシミュレーション(下図)と実験(上図)での和周波発生分光スペクトルの比較。ともに、周波数3500、3700(cm-1)付近にピークが見られる。この周波数は界面の水分子のOH基の伸縮振動(上向き、下向きで正負が変わる)に対応していると考えられる。

光触媒物質界面の謎を解明

酸化チタンは光触媒として用いられる物質で、通常の状態では水をはじく「撥水性」がありますが、紫外線を照射すると「親水性」に変わるという特殊な性質を持っています。この性質の変化は、水との界面に接する酸化チタン表面に水分子のOH基が結合することで生じるのではないかという仮説がありましたが、まだ確かめられていませんでした。

そこで大戸さんは、表面に多数のOH基が結合した酸化チタンとOH基のない酸化チタン、それぞれに対して第一原理MDシミュレーションを行い、得られた和周波発生分光スペクトルを実験と比較しました。その結果、OH基のある・なしと、親水性・撥水性が強く関連していることが分かりました。この成果によって光触媒界面で起きている反応の理解が進み、今後、より性能の高い光触媒の開発につながることが期待されます。

解説2

酸化チタン/水の界面の
第一原理MDシミュレーション

大戸さんは、酸化チタンの表面にOH基がある場合とない場合、それぞれに対して、第一原理MDシミュレーションを行なった(下図)。その結果、紫外線を照射した実験の和周波発生分光スペクトルは、OH基がない場合(下図a)より、OH基がある場合(下図c)のシミュレーション結果に近かった。これは、紫外線を照射した酸化チタンの表面にはOH基が存在することを示唆している。今回のシミュレーションは、別途行った和周波分光スペクトルの実験で検証された。

酸化チタン/水界面の第一原理MDシミュレーション結果

酸化チタン/水界面の第一原理MDシミュレーション結果。
図(a)のパラメータは、酸化チタン表面からの距離(Å)。

S. Hosseinpour, T. Ohto et al., J. Phys. Chem. Lett. 8, 2195 (2017).

この第一原理MDシミュレーションでは、東京大学の大規模並列スーパーコンピュータシステム「Oakbridge-CX」と、大阪大学サイバーメディアセンターの「OCTOPUS」が使われました。「第一原理MDのような複雑で膨大な計算には、HPCが必須になります」と大戸さんはいいます。

「コストパフォーマンス」の高い計算手法を探す

第一原理MDシミュレーションではMDの計算ステップ毎に、厳密解を得ることができない「多体問題」を近似的に解いて、原子に働く力を求める必要があります。このために用いられるのが密度汎関数法ですが、対象とする電子の間の相互作用を記述する「交換相関汎関数」の正確な表式は分かっていないため、これまでさまざまな近似式が提唱されてきました。一般的に近似式の精度がよいほど計算コストも高くなるため、数万ステップ以上の計算が必要となる第一原理MDシミュレーションでは、計算のコストパフォーマンスも重要になります。しかし、界面のような特殊な対象に対してどの近似式を使えば最もコストパフォーマンスのよい計算ができるかは、ほとんど分かっていませんでした。

そこで大戸さんは、それぞれの近似式の正確さと計算時間を、実際に界面のシミュレーションを行って比較しました。その結果、比較的計算コストが小さい近似手法でも精度の高い結果が得られるものもあることが分かってきました。「この成果を今後の水界面シミュレーションに活かしたい」と大戸さんはいいます。

解説3

交換相関汎関数のさまざまな近似法の比較

水界面の第一原理MD計算で、さまざまな交換相関汎関数の近似式(周方向)を比較したもの

水界面の第一原理MD計算で、さまざまな交換相関汎関数の近似式(周方向)を比較したもの。左図は計算の正確さ(径が大きいほど正確)、右図は計算時間(径が大きいほど計算時間が長い)を示す。たとえば、「revPBE」のように、比較的少ない計算時間で、正確さの高い近似式が分かった。

T. Ohto et al., J. Phys. Chem. Lett. 10, 4914 (2019).

より現実に近い水界面シミュレーションへ

今回の研究成果は、水界面の特殊な性質を解明する糸口になったとともに、「HPCによる第一原理MDシミュレーション」という研究分野の大きな可能性を示したものといえます。大戸さんは、今後、この手法をさらに発展させ、より複雑で現実に近い界面での物理現象を調べていきたいといいます。

「今回、水と空気の界面を対象にして良い計算手法を見つけることができました。今後はこの手法をより複雑な水界面に応用していきたいと思います。現実の化学反応では、イオンによってpHが変化したり、固体の表面に多数の不純物や欠陥があったりします。そうした影響を考慮した、より現実に近い水界面のシミュレーションを進めていきたいです」

研究者紹介

研究者紹介

小さい頃から自然科学に興味を持っていたという大戸さん。小学生の頃は宇宙に、中学・高校では環境問題に興味を持っていたそうです。研究者になったきっかけは、大学院修士課程の時、ドイツの世界的な化学メーカー、BASF社にインターンシップに行ったこと。BASFの計算部門で研究開発業務を体験した大戸さんは、「アカデミアでやることもまだまだある」と感じたといいます。大学の研究室にもどった後、もっと大規模で、実験でも確かめられる研究をやりたい、という思いから、以前から興味のあった触媒反応の研究に取り組むことにしたそうです。「『第一原理MD』に取り組んでいる人はまだ多くはありませんが、『富岳』をはじめとするHPCIによって、多くの人に手が届くものになってきました。分子・原子の動きを追うことができる、とても魅力的な手法だと思うので、この分野にもっと多くの人が参加してほしいです」

研究課題名:
固液界面物性を記述する交換相関汎関数の開発(hp200081)




防災・減災シミュレーションとデータ変換の今昔

大石 哲

理化学研究所 計算科学研究センター
総合防災・減災研究チーム
チームリーダー

おおいし さとる
大石 哲さん

私は静岡県で生まれ育ちました。1970年代の幼少期と東海地震対策が重なったので災害に関心があり、高校から大学に進学するにあたり土木工学を志しました。学部で興味が湧いた授業が計算機実習だったので、実験ではなくて計算が主体の防災系の研究室の門を叩きました。

当時はEWS(エンジニアリングワークステーション)といわれるマルチウインドウのマシンがありましたし、イエローケーブルと言われたインターネット環境もあったのですが、取り合いになることが多かったので、私は画面がない端末から300bpsのカプラ式モデムを使って大型計算機センターに接続して計算を行っていました。画面がないので、プログラムの入力時には文字を確認できません。入力後に紙に印刷したものを確認して、ラインエディタで「3行目の5番目の’+’を’*’に変える」といった具合にプログラミングしました。私の世代としては珍しい経験だと思います。マルチウインドウがなくてもプログラム打ち始めから計算終了までの時間は、端末が空くまで待っているより短かった記憶があります。

卒論では、シミュレーションで洪水を発生させて、ダムからの放流量を最適化することによって洪水を防ぐという研究を扱いました。洪水のシミュレーションのためには、洪水流の理論の数式をプログラミングするとともに、地形と雨量といった入力値が必要になります。現在では国土地理院や気象庁などから、インターネットを通じて入手可能ですが、私はそのような状況になる前に研究を始めましたので、雨量のデータは磁気テープを使って読み込んでいました。

現在は、複合災害の研究のために洪水だけでなく地震や津波のシミュレーションを行っています。地下の地盤の特性や、既存の橋梁きょうりょうのコンクリートの中の鉄筋といった入力値が必要になりますが、そのような情報は入手する以前にデータにすること自体が困難です。理研で開発している技術を用いて、データになっていない橋の鉄筋やトンネルのロックボルトなどといった情報を普通の研究者や技術者が使えるようになれば、正確な情報に基づくシミュレーションが可能になります。その先のシミュレーションが導く災害に強い社会の形成に貢献したいと考えています。

次回は、スーパーコンピュータ「富岳」上で大規模な気象・気候シミュレーションから洪水・河川氾濫のシミュレーションまでシームレスに行い、マルチフィジックス・マルチハザードシミュレーションを実践している若手の山浦剛技師につなぎます。

データ処理プラットフォームを使ったモデル2種

図:理研の技術であるデータ処理プラットフォームを使って2次元CADファイル群を自動で読込み3次元化した橋梁の床版(路面の下の部分)の鉄筋(左)と鉄筋の配置や属性などを考慮してシミュレーションに使うモデル(右)
右のモデルは有限要素法プログラムに入力して余寿命診断などに用いられる。モデルが自動生成されることで計算工数を大幅に減らすことが可能になった。

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